1023

今日はそこまで本を読まなかった。どちらかというと音楽をたくさん聴いた。ありふれた言葉がメロディーに乗った瞬間に輝き出す、あれが好きだったのに、いつの間にかそれが好きだったことを忘れてしまってたみたいだと気付いた。何かに気付く時は、こころがちょっと敏感になっているんだと思う。今日気付いた他のことは、すっかり秋になったということだけだ。


みんな少しだけ、周りのみんなを下に見ていないと自分を保っていられないのだという事実が時々許せなくなるのは、自分が誰かを下に見ていたいと思っているからだと知り、僕はいつまで経っても大人になれないんじゃないかと不安になった。いつまでも、自分を一番見ているのは自分だ。こんな文章、誰も読まなくていいのだ。じゃあどうして、書いているんですか。知らないし、知りたくもない。

1022

今何か頑張っていても、それが成果につながるとは限らない。当たり前のことだ。それでも頑張れば何か素敵な未来につながるかもしれない。つながらないかもしれない。どっちに転んだとしても、その価値を判断するのは他人ではなくて自分だ。しかるべきその時へ向けて自分の価値判断のフィルターを曇りなく保っておくために今日は何を読んで、何を聴こうか。

わかっているような顔

   何か途轍もなく悲しいことがあった、嬉しいことがあった。もしくは朝の光が水溜りに反射して輝いている風景や、夕焼けがビル群を優しく茜色に染めている遠景を眺めて日々の疲れが癒された。そんな感慨を覚えた時よりも、何もない帰り道、疲れ果てた足で詰め込まれた満員電車の中、何も考える気が起きない夜にこうして文章を書くと、自分は自由になれる気がする。自由は結局、拘束の中にある、と言っていた作家の名前は忘れたけれど、こうした文言を頭に浮かべているとなんとなく救いがあるので文学も捨てたもんじゃないと思う。

 


   僕は今足が疲れている。だけど、バンドTシャツに短パンという軽装、無造作な髪で薄いリュックを背負って車中にいる僕は、スーツにズッシリと汗をかいた勤め人、めんどくさそうに両手親指でスマホを弄る白髪の老人、大きすぎるデパートの買い物袋を抱えた女性と比較して、座席に座る権利はない。だけどそれは見た目の話で、僕だって足が疲れている。権利って言葉は優しさのようでいて、いつも誰かに対して残酷なのだ。ふくらはぎに蓄積された疲労を数値で表せるとして、僕はそこらにいる壮年老年の数値を遥かに上回り一等賞をとる自信がある。これは想像力の問題だ。傾向として「若者は元気だ」とか、そういう話じゃないのだ。傾向は常に人の想像力を鈍らせる。大事なのは、他人に伝わらない個の感覚、内に秘めた苦痛に思いを馳せ続けることじゃないのか…などと難しい顔で考えていると、前に座っていた老人がおもむろに立ち上がりホームへと消えていった。若い僕があれこれと考えるよりも、歳を重ねた老人にはもっと多くのことが「わかって」いるのかもしれない。そんなことまでわかった気になるなよ、自分。結局、わかったようなわからないような顔で、僕は踵を返し、他の乗客に席を譲ってみた。

鉛筆

「心をまとめる鉛筆とがらす」尾崎放哉

 

 鉛筆を尖らすことは、それ自体すり減らすことでもある。この尾崎放哉の句を読むと、削れば削るほど尖っていき、尖らせすぎるとポキっと折れてしまう鉛筆の有様が、そのまま人間の姿として伝わってくる。
 心をまとめて相手に伝えることは難しい。それは、事に及んで抱いた感情は白か黒では表せないからだ。
 「言葉にする」ことは、日常会話の場面で言えば「選び取る」ことだと思うことが度々ある。どことなく憂鬱で誰かに会いたい、そんな時、誰かに「悲しい」という言葉だけを伝えたって、きっと自分の感情は伝わらない。どれかと言えばこれかな、という風に漠然と言葉を選んで、その言葉をポンっと相手に放る、と、その言葉は放られた瞬間から形を変え始め、色を変え、大きさを変え、あらゆる文脈に変換されて、長い距離を飛び越えて相手に着地する。わかり合うことが難しいように思えるのは、自分の感情に適した言葉を選ぶのが難しいからだと思う。それと同じ理由で、SNSは「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」が可視化されてしまうから難しいのだ、と僕は思う。

 

 そんなことを考えていたって、誰にも伝えることができないのなら考えること自体にも存在意義はない。発信できないような浅い考えは、考えていることにもならない。誰かに実際に会って話さなくても、言葉がネット上に多く流れていればたくさんその人に会っているように思える社会だ。それはそれでいいことはたくさんあるけれど、当たり前のようにそれが嫌になり、考えることも伝えることも面倒になって終日家で寝転んで過ごしていると、自分の先っぽがどんどん丸くなってきているのを感じ始め居ても立っても居られなくなる。そして今ここで、パソコンに向かって、こんな文章を書いている。自分はまだ若い。伝えることを諦めることなんてきっとできない。折れてしまってもいいから、削って削って尖らせたい。その繰り返しだけが生きている証拠なのだ、と、もうとっくの昔に成仏した尾崎放哉の声が聞こえた気がした。

無駄な疲れ

   この世に無駄な疲れは存在するのだろうか、などと考えていたら、無駄に疲れた。

   ベッドと壁の細い隙間に鍵を落としたことがある。試行錯誤を繰り返して、やっとのことで「うちわの先にガムテープを貼り付けて鍵を釣り上げる」という技を編み出し鍵を救出したはいいものの、約束の時間に遅れて駅まで走ってひどく疲れた。
   この時僕は「無駄に疲れたなあ」と思ったのだけど、もしかするとこの荒技の発見は今後人生の岐路において何か重大な役割を果たすかもしれないし、もしくはガムテープをベッド横の隙間に這わせて散在していたホコリを除去したおかげで、ハウスダストに起因する呼吸器疾患を防げたかもしれないなどと考え出したら、人生的なスケールで意味のある疲れなのかもしれないと合点してほっとした。
   いや、こういう所も含めて僕の生き方には全体的に無駄が多いのかもしれない。

   「1日の終わりにジムへ行きます」という人たちをなぜか信用できない。というか、信用したくない。疲れ果てた1日の帰りに、その疲れをさらに極限まで追い詰めるようにランニングマシンで体を痛めつけ、ベッドに倒れこむようにしないと寝付けないその姿に何らかの狂気を感じる。その人たちに言わせれば、「疲れとは通り越し、新たな境が見えてくるもの」らしい。難しすぎて全然わからん。

   「無駄な疲れ」と「無為」は意味が違うけれど、もしかしたら近いものかもしれないと思うことがある。「努力とは、その先に成果があると思ってやっている時点でもう苦痛ではないからそれは努力ではなく、本当は何もしないのが一番苦痛だから努力なのではないか」と誰かが言っていた。なんだか胡散臭いようで妙に納得のいく話だと思ったけれど、この説で行くと「無駄な疲れ」とは無為に近い努力の結晶なのではないか…という真理めいた何かが仄明るく見えて来たが、疲れたので寝る。

新宿駅

  音が聞こえている。ぐわんぐわんと頭の中で鳴り響いている。だけどそれは音楽みたいな素敵な響きじゃない。ザーザーザー。人身事故の影響で、電車に遅れが出ています。隣のホームの発車ベル。駅員に怒鳴り散らす男の声。大学生の笑い声。ワーワー。キャーキャー。話し声。話し声。声ともつかない声。
  僕はホームに立っている。鼓動の音は聞こえない。

  音は無数に重なり合っている。音楽じゃないと言ったのは、単純に、それが心地良くないからだ。だけど自分にとって心地良くない音楽を「音楽じゃない」と言い張るのは、なんだか堅物な批評家のようで情けない。だから、これは本当は音楽なのかもしれない。
  それでも僕にとってこの音楽は聞くに耐えない。それは懐が狭いからだ、と内なる声が聞こえる。どの音楽も、みんな違って、みんないいですね。嫌いだった音楽教師の声が聞こえる。それらの声はホームに鳴り響く音楽と混ざり合い、何オクターブにも渡る壮大な和音となって僕に襲いかかる。そこに僕は立っている。僕は鳴り響く和音の格調を損なう。不協和音に変わる。ごめんなさい。そんな妄想。

真っ白な天井

  本を読む気分でもなくて、何をするでもなく真っ白な天井を眺めた。部屋には僕一人だ。スピーカーの充電も切れた。寝そべったまま深呼吸すると肩に力が入っていたことに気付く。そんなことがよくある。
  楽観的というよりは悲観的な人間だと思う。明るいというよりは暗い人間だと思う。奔放というよりは神経質な人間だと思う。そう思うのは夜だからだと思う。夜だけだとしても、こうして憂鬱になるのは人生の浪費かもしれない。

  時に救いようもなく陰気で、時に場違いなくらい陽気になる。というのは、誰しも実感としてあると思う。「人はそういうものだ」と誰もが言うし、「人は一面的には語れない」とわかったような顔でみんなが言っているけれど、それが本当にわかっている人はどれだけいるのか。

  当たり前のことだけど、夜が終われば朝が来る。なんとなく憂鬱、には終わりが来る。裏を返せばそれと同じように、一日が終われば暗い夜が来るし、幸せな日々もいつか悲しみに侵される。それ自体の憂鬱よりも、「その憂鬱が来てしまう」という怯えに対する憂鬱が濃い。自分でもよくわからないけど悲しいので仕方ない。

  ベッドから起き上がれば、意外と体は機敏に動くだろう。何も考えず歯を磨いて、何も考えずお茶を飲み、何も考えず眠りにつけばいい加減な明日が来る。それがどうしてもできないのは、僕がそうすることを望んでないからだ、と気づいた時には、いつの間にか朝が来ている。