淘汰されていくもの

あなたは何が好きですか?

こうして何年も、のうのうと生きていると、自分が大切にしているものが無茶苦茶に破壊されている場面に遭遇することがある。それはものに限らない。風景、場所、ひと、優しさ、愛、あたたかさ、そういった類のすべてのものが。

それらが跡形も無く破壊されるのを、黙って見ていられる人がいるわけがない。その破壊の場面に遭遇したら、誰もが何かしら言葉を発するものだ。たとえ発せられた言葉が、誰にも受け取られず崩れ去ってしまうとわかっていても、誰もがどこか、自分の入り込む僅かな隙間を探して、そこに全力を込めて、言葉を送り込む。

僕にとってのその僅かな隙間は、周りにいる大切な人たちだったり、音楽だったり、今書いている文章だったりする。そういう場自体がもし失われてしまったら、僕はどうするだろう。文藝春秋に載っている国語についての論争を見て、そんなことを思った。

社会の刃が悪い方向に向かって、自分の大切にしている場が淘汰されることになったら。歴史を見れば、そんなことは沢山あるのだ。僕がこうして、なんのしがらみもなく生きていること自体が奇跡なのだと思う反面、その甘ったれた現状を嘲笑うような圧倒的な現実が自分に覆い被さってきた時の絶望を、僕はまだ想像できずに、嵐の前の静けさのようなこの生活に少し不安を感じている。

とにかく僕は、自分の大切なものが本当に大切なんだと声を上げ続けよう。たとえそれが無意味だとしても、そうすること自体に意味があると願えば、それを願う余地があれば、きっと僕らはまだ大丈夫だ。