1027

何でもないことが頭から離れず、何でもないにも関わらず何らかの意味を持った悪い出来事の兆候のように頭のどこかに居座っていることがある。どんな出来事も自分が非難されているように映る時は、大概自分が自分の生活に後ろめたさを感じていることが多い。どこか頑張れていないとか、どこか心の余裕を感じてしまっているとか。

そういう時は、何かしていないと不安になるのでとりあえず本を読む。映画を観る。ラジオを聴く。そうして何かしら、考える。活字を追いながら、画面を見ながら、物語を追いながら、人の話を聞きながら、頭の隅で別の何かを常に考え続けている。芸術鑑賞とはもしかしたらこの「頭の隅」にある何かに思いを馳せること、つまり、自分の思考を活性化させ、普段の生活では行き届かない無意識の深い深い部分へと自分を誘う役割があるのではないか。

そしてそれが、もしかしたらいちばん大事なことなんじゃないか。

1025

気狂いピエロを途中までみた。全然ちがうことを考えてた。

 

「文学的」な歌詞、というやつがどうにも無理になった。とりあえず難しい漢字を使っておけばいいと思っている人は漢字検定でも取ればいい。平易でわかりやすい言葉で、複雑でわかりにくいことを体現するのが一番面白い。なんでかって言われたら困るけど、僕はそういう方が好きだしなんとなくそうあるべきだと思っている自分が自分にとって正しいと思ってる。

1024

カメラを止めるな!」をやっと見た。評判通り面白かった。帰りの電車では堀江敏幸「曇天記」を読んだけれど、疲れていたからかあまり頭に入ってこなかった。本当は大好きなのだ。最寄駅からの歩きでは、最近聴いているラジオ「学問のススメ」の都甲幸治さんの回を聴いた。なんだかむちゃくちゃ馬鹿なことを言っているようで、核心をついた言葉を持っている人はずるいなあと思うが、その「ずるさ」こそ文学の役割だったりする。逆に当たり前のことをさも大事なことのように話す人だって、その落差自体に実はむちゃくちゃ意味があるんじゃないか。つまり、物事の本質は表面には全然あらわれなくて「なんで?」とか「あれこの人嘘ついてる?」とか疑ってかかる、想像力を巡らすことができるから。そういう思考の厚みみたいなものをもたらしてくれるのが芸術や文学の役割で、「芸術的な人」ってそういう人だよなとおもう。と思ったのも、たぶん映画世界が何度もひっくり返る映画を観たからで、なんだか恥ずかしいので風呂に入って寝る。

1023

今日はそこまで本を読まなかった。どちらかというと音楽をたくさん聴いた。ありふれた言葉がメロディーに乗った瞬間に輝き出す、あれが好きだったのに、いつの間にかそれが好きだったことを忘れてしまってたみたいだと気付いた。何かに気付く時は、こころがちょっと敏感になっているんだと思う。今日気付いた他のことは、すっかり秋になったということだけだ。


みんな少しだけ、周りのみんなを下に見ていないと自分を保っていられないのだという事実が時々許せなくなるのは、自分が誰かを下に見ていたいと思っているからだと知り、僕はいつまで経っても大人になれないんじゃないかと不安になった。いつまでも、自分を一番見ているのは自分だ。こんな文章、誰も読まなくていいのだ。じゃあどうして、書いているんですか。知らないし、知りたくもない。

1022

今何か頑張っていても、それが成果につながるとは限らない。当たり前のことだ。それでも頑張れば何か素敵な未来につながるかもしれない。つながらないかもしれない。どっちに転んだとしても、その価値を判断するのは他人ではなくて自分だ。しかるべきその時へ向けて自分の価値判断のフィルターを曇りなく保っておくために今日は何を読んで、何を聴こうか。

わかっているような顔

   何か途轍もなく悲しいことがあった、嬉しいことがあった。もしくは朝の光が水溜りに反射して輝いている風景や、夕焼けがビル群を優しく茜色に染めている遠景を眺めて日々の疲れが癒された。そんな感慨を覚えた時よりも、何もない帰り道、疲れ果てた足で詰め込まれた満員電車の中、何も考える気が起きない夜にこうして文章を書くと、自分は自由になれる気がする。自由は結局、拘束の中にある、と言っていた作家の名前は忘れたけれど、こうした文言を頭に浮かべているとなんとなく救いがあるので文学も捨てたもんじゃないと思う。

 


   僕は今足が疲れている。だけど、バンドTシャツに短パンという軽装、無造作な髪で薄いリュックを背負って車中にいる僕は、スーツにズッシリと汗をかいた勤め人、めんどくさそうに両手親指でスマホを弄る白髪の老人、大きすぎるデパートの買い物袋を抱えた女性と比較して、座席に座る権利はない。だけどそれは見た目の話で、僕だって足が疲れている。権利って言葉は優しさのようでいて、いつも誰かに対して残酷なのだ。ふくらはぎに蓄積された疲労を数値で表せるとして、僕はそこらにいる壮年老年の数値を遥かに上回り一等賞をとる自信がある。これは想像力の問題だ。傾向として「若者は元気だ」とか、そういう話じゃないのだ。傾向は常に人の想像力を鈍らせる。大事なのは、他人に伝わらない個の感覚、内に秘めた苦痛に思いを馳せ続けることじゃないのか…などと難しい顔で考えていると、前に座っていた老人がおもむろに立ち上がりホームへと消えていった。若い僕があれこれと考えるよりも、歳を重ねた老人にはもっと多くのことが「わかって」いるのかもしれない。そんなことまでわかった気になるなよ、自分。結局、わかったようなわからないような顔で、僕は踵を返し、他の乗客に席を譲ってみた。

鉛筆

「心をまとめる鉛筆とがらす」尾崎放哉

 

 鉛筆を尖らすことは、それ自体すり減らすことでもある。この尾崎放哉の句を読むと、削れば削るほど尖っていき、尖らせすぎるとポキっと折れてしまう鉛筆の有様が、そのまま人間の姿として伝わってくる。
 心をまとめて相手に伝えることは難しい。それは、事に及んで抱いた感情は白か黒では表せないからだ。
 「言葉にする」ことは、日常会話の場面で言えば「選び取る」ことだと思うことが度々ある。どことなく憂鬱で誰かに会いたい、そんな時、誰かに「悲しい」という言葉だけを伝えたって、きっと自分の感情は伝わらない。どれかと言えばこれかな、という風に漠然と言葉を選んで、その言葉をポンっと相手に放る、と、その言葉は放られた瞬間から形を変え始め、色を変え、大きさを変え、あらゆる文脈に変換されて、長い距離を飛び越えて相手に着地する。わかり合うことが難しいように思えるのは、自分の感情に適した言葉を選ぶのが難しいからだと思う。それと同じ理由で、SNSは「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」が可視化されてしまうから難しいのだ、と僕は思う。

 

 そんなことを考えていたって、誰にも伝えることができないのなら考えること自体にも存在意義はない。発信できないような浅い考えは、考えていることにもならない。誰かに実際に会って話さなくても、言葉がネット上に多く流れていればたくさんその人に会っているように思える社会だ。それはそれでいいことはたくさんあるけれど、当たり前のようにそれが嫌になり、考えることも伝えることも面倒になって終日家で寝転んで過ごしていると、自分の先っぽがどんどん丸くなってきているのを感じ始め居ても立っても居られなくなる。そして今ここで、パソコンに向かって、こんな文章を書いている。自分はまだ若い。伝えることを諦めることなんてきっとできない。折れてしまってもいいから、削って削って尖らせたい。その繰り返しだけが生きている証拠なのだ、と、もうとっくの昔に成仏した尾崎放哉の声が聞こえた気がした。