無駄な疲れ

   この世に無駄な疲れは存在するのだろうか、などと考えていたら、無駄に疲れた。

   ベッドと壁の細い隙間に鍵を落としたことがある。試行錯誤を繰り返して、やっとのことで「うちわの先にガムテープを貼り付けて鍵を釣り上げる」という技を編み出し鍵を救出したはいいものの、約束の時間に遅れて駅まで走ってひどく疲れた。
   この時僕は「無駄に疲れたなあ」と思ったのだけど、もしかするとこの荒技の発見は今後人生の岐路において何か重大な役割を果たすかもしれないし、もしくはガムテープをベッド横の隙間に這わせて散在していたホコリを除去したおかげで、ハウスダストに起因する呼吸器疾患を防げたかもしれないなどと考え出したら、人生的なスケールで意味のある疲れなのかもしれないと合点してほっとした。
   いや、こういう所も含めて僕の生き方には全体的に無駄が多いのかもしれない。

   「1日の終わりにジムへ行きます」という人たちをなぜか信用できない。というか、信用したくない。疲れ果てた1日の帰りに、その疲れをさらに極限まで追い詰めるようにランニングマシンで体を痛めつけ、ベッドに倒れこむようにしないと寝付けないその姿に何らかの狂気を感じる。その人たちに言わせれば、「疲れとは通り越し、新たな境が見えてくるもの」らしい。難しすぎて全然わからん。

   「無駄な疲れ」と「無為」は意味が違うけれど、もしかしたら近いものかもしれないと思うことがある。「努力とは、その先に成果があると思ってやっている時点でもう苦痛ではないからそれは努力ではなく、本当は何もしないのが一番苦痛だから努力なのではないか」と誰かが言っていた。なんだか胡散臭いようで妙に納得のいく話だと思ったけれど、この説で行くと「無駄な疲れ」とは無為に近い努力の結晶なのではないか…という真理めいた何かが仄明るく見えて来たが、疲れたので寝る。

新宿駅

  音が聞こえている。ぐわんぐわんと頭の中で鳴り響いている。だけどそれは音楽みたいな素敵な響きじゃない。ザーザーザー。人身事故の影響で、電車に遅れが出ています。隣のホームの発車ベル。駅員に怒鳴り散らす男の声。大学生の笑い声。ワーワー。キャーキャー。話し声。話し声。声ともつかない声。
  僕はホームに立っている。鼓動の音は聞こえない。

  音は無数に重なり合っている。音楽じゃないと言ったのは、単純に、それが心地良くないからだ。だけど自分にとって心地良くない音楽を「音楽じゃない」と言い張るのは、なんだか堅物な批評家のようで情けない。だから、これは本当は音楽なのかもしれない。
  それでも僕にとってこの音楽は聞くに耐えない。それは懐が狭いからだ、と内なる声が聞こえる。どの音楽も、みんな違って、みんないいですね。嫌いだった音楽教師の声が聞こえる。それらの声はホームに鳴り響く音楽と混ざり合い、何オクターブにも渡る壮大な和音となって僕に襲いかかる。そこに僕は立っている。僕は鳴り響く和音の格調を損なう。不協和音に変わる。ごめんなさい。そんな妄想。

真っ白な天井

  本を読む気分でもなくて、何をするでもなく真っ白な天井を眺めた。部屋には僕一人だ。スピーカーの充電も切れた。寝そべったまま深呼吸すると肩に力が入っていたことに気付く。そんなことがよくある。
  楽観的というよりは悲観的な人間だと思う。明るいというよりは暗い人間だと思う。奔放というよりは神経質な人間だと思う。そう思うのは夜だからだと思う。夜だけだとしても、こうして憂鬱になるのは人生の浪費かもしれない。

  時に救いようもなく陰気で、時に場違いなくらい陽気になる。というのは、誰しも実感としてあると思う。「人はそういうものだ」と誰もが言うし、「人は一面的には語れない」とわかったような顔でみんなが言っているけれど、それが本当にわかっている人はどれだけいるのか。

  当たり前のことだけど、夜が終われば朝が来る。なんとなく憂鬱、には終わりが来る。裏を返せばそれと同じように、一日が終われば暗い夜が来るし、幸せな日々もいつか悲しみに侵される。それ自体の憂鬱よりも、「その憂鬱が来てしまう」という怯えに対する憂鬱が濃い。自分でもよくわからないけど悲しいので仕方ない。

  ベッドから起き上がれば、意外と体は機敏に動くだろう。何も考えず歯を磨いて、何も考えずお茶を飲み、何も考えず眠りにつけばいい加減な明日が来る。それがどうしてもできないのは、僕がそうすることを望んでないからだ、と気づいた時には、いつの間にか朝が来ている。

自然でいること

  書いては消して、書いては消してを気が遠くなるほど繰り返して、こんなに時間が経っていた。日記に腰を入れる必要なんて全くない。何事も発信しなきゃ始まらないよ、と誰かが言った。未熟な部分も誰かが愛してくれるよ、と誰かが言った。そもそも誰も気にしてなどいないよ、と誰かが言った。そりゃそうだ、と思うけれど、誰よりも自分を気にしているのは自分自身だ。何か書こうとすると、「おいおい、そりゃ違うんじゃないか」とつっこむ自分、「誰かを傷つけるんじゃないか」と注意する自分、「まだまだ足りんなぁ」となぜか上から言ってくる自分、全てをクリアした発言など一生かかってもできないな、と思い、少し酒を飲みながら、肩の力を抜いてこの日記を書いています。

  日記というより後記。しばらくライブが続いた。先々週の大阪、名古屋は初めての遠征、何かを掴んで来た実感ももちろんあるけれど、何より楽しかった。「楽しかった」で終わらせてはいけないことなど百も承知で、「楽しかった」以上に大事なことなんてないんじゃないかと思う。努力することも、何かを我慢することも、その先に「楽しい」が待っているからやる、というのが一番自然で、バンドは結局自然であることが一番だと思う。名古屋で食べた味噌煮込みうどんは本当に美味かった。

 

  必死で動いていないと急に不安になることがある。体が疲れていない時ほど、色んなことが怖くなって心が疲弊する。朝5時に東京を発って、ライブをして翌朝4時に東名高速を運転している時など、体とは裏腹に心はいたって健康だった。つまらないことで頭を悩ます暇もなく目の前には圧倒的な現実があって、慣れない運転で気を抜いたら死ぬ。そんな状態の方が居心地がいいのかもしれない。
  実感としてある以上に、自分は脆く弱い。そんなことを言い出すと鼻で笑われるけれど、僕はそうやって笑う人を鼻で笑っていなければならないらしい。ステージの真ん中に立つ人は断定的でなければいけないらしい。「これからも俺らについてこいよ」「俺がお前を変えてやる」がかっこいいこともよく知っているし、そうありたくてバンドを始めた節さえある。だけど絶対に僕はそれにはなれないし、今ではそんなことを断定的に言える人間が苦手だ。と、ちょっと断定的に言えたところで、今日は終わり。

一日の終わり

 今日は久しぶりに体調を崩してしまって、朝から晩まで家にいた。外はずっと暗かった。台風が来るらしい。ただ寝ているだけだと悲観に向かいそうな体を必死で起こして、本と服で散らかった部屋の片付けをした。時間が経つのはすごく早かった。
 「長い目で見る」ということを、いつからか忘れていた気がする。いつの間にか、何かしなきゃ、何かしなきゃと生き急いでいる。そう気付くのはいつも休日だ。急に立ち止まると、夢中で走っていた時には気付かなかった疲れが溢れ出すみたいに、何かを実感するのはいつだって立ち止まった時だと思った。
 「やりたいことが沢山ある内は幸せだ」と人は言うけれど、やりたいことに追われて生きることが必ずしも幸せとは思えない。やりたかったことがタスクになってしまう時は空恐ろしい。何も予定帳に書かなくてもこれぐらいはやるよ、と考えていたことで予定帳が埋まっていく、そんなイメージが絶えずあって怖い。あくまでも追いかけていたい。何もしたくない、そんな一日もあっていいし、何かに巻かれるように生きてもいいけれど、「何かをしたい」というただそれだけに突き動かされて生きていたい。そんな一日の終わりを、書きたいと思って書いた。夜は曲を書こう。

六畳の夜

 昔から寝つきが悪い。それゆえに、夜が苦手だ。夜が更けるにつれて、感情のわだかまりが姿を見せ始め、そのわだかまりの正体が一体何なのかもわからずに、ひたすら不安が押し寄せてくることがある。不安はそれが不安だと意識すればするほど大きくなって、頭の中がその不安でいっぱいになり寝付けなくなる。体がどれだけ疲れていても、意識のどこか尖った部分が自分を叩き起こしている。だけど一体何が不安なのか、自分でも見当がつかない。

 そんな夜は、自分でもびっくりするほど神経が鋭敏になっている。時計の針は舌打ちをしているようで、眠れない僕を焦らせる。一秒とはこんなに早いものだったのか、明日は一秒一秒大事に生きようと、大事なことに気付いたつもりになってみても、肝心の明日が来ない。堂々巡りとはまさにこのこと、こんな状態で朝日を待つ僕は世界で一番無能な存在だ。

 それだけ自分にとって、寝付けないことは悲観の種になっている。だからこそ、こういう時のために作品がある、と僕は勝手に思ってしまう。もちろんこんな身も蓋もない悩みに高尚な作品をあてがうつもりはないけれど、自分はこういう寝付けない深夜に多くの作品に胸を突き動かされ、救われてきた気がする。

 僕がバンド音楽を聴き始めたのは、ELLEGARDENが始めだった。高校の先輩に聴いてみろと言われて初めて聴いたのはベスト盤の「Middle of Nowhere」、畳み掛けるような英詞の中で、「君は狂ってなんかいない ただちょっと複雑なだけだよ」という一節がある。僕はそのフレーズを聞いた瞬間にロックの虜となった。正体もわからない不安、行き場のない感情を、肥大した自意識の中に溜め込んでしまっていた僕は、この「ただちょっと複雑なだけだよ」という言葉に泣けてくるほど安心した記憶がある。君はここがおかしいよ、変だよ、というのではなく、「ただちょっと複雑なだけだよ」と捉えてくれる音楽の優しさと懐の広さ。それは自分が今まで出会ったどんな言葉よりも、自分の不貞腐れた自意識を抱きしめてくれた。それ以来、僕は音楽や本にこういう「言葉の救い」みたいなものを求め始めて、しまいには自分が救われたように誰かを救う作品を作りたいと強く願うようになった。少ないけれど自分の曲を聴いてくれている人がいる時点で、僕はちょっとでも誰かの救いになれているのかな、なれていればいいなと願いながら曲を作る。けれど結局、一番その事実に救われるのは自分だ。

 深夜の帰り道、iPhoneで音楽をシャッフル再生していると流れ出したのは聴き飽きるほど聴いたアジカンのリライト。「軋んだ想いを吐き出したいのは、存在の証明が他にないから」?悩みを書き連ねるのは結局は自己主張かな。大好きな音楽にもバカみたいと笑われる夜がある。そんな夜は、自分でも驚くほどスッと眠れたりする。

最高の今を打ち鳴らせ


  ワンマンが終わって一週間が経って、ようやく自分の中で気持ちが落ち着いてきた。ステージに立った時の感動があまりにも大きすぎて、その余韻をずるずると引きずってここまで時間が経ってしまった。来てくださった皆さん、いつも支えてくれる皆さん、何はともあれ本当にありがとうございました。

 ワンマンをやると決めた時、僕は恐ろしく不安だった。集客の不安ももちろんあったけれど、それ以上に、楽しんでくれる人、楽しめなかった人、それらすべてが僕らの一挙手一投足にかかっていることが、怖くて仕方なかった。正直に言ってしまえば、そんな重役を務める器量に自信がなかった。
 「やってみなきゃわからない」ことがあるにしろ、それで誰かの好意を踏みにじるリスクがあるのならきっと挑んではいけない。わかってはいながらも、ワンマンの開催を決めてしまったのはきっとどこまでも僕らのエゴだった。

 それでも蓋を開けたら、演奏が終わるたびに本当に大きな拍手が僕らを待ってくれていた。たくさんの笑顔が僕らの演奏を見守ってくれていた。それが何よりの救いでした。僕らが笑った時に一緒になって笑ってくれる、僕らが泣きそうな時は一緒になって涙を流してくれる、そんな存在がいることは、僕らにとって幸せでしかない。

 だけど、ワンマンが終わってみて、なんだか急に落ち込んでしまった。当たり前のことを僕は忘れていた気がする。きっと来てくれるあなた達一人一人がとてつもない努力を注いでいる場所は、誰からも拍手をもらえない場所だったりする。誰からも見えない所で泣いている人だってたくさんいる。そんな中で僕らだけが拍手をもらえることに、なんだか抵抗を感じた。というか、これに対して罪悪感を感じていなければ自分は駄目になると思って、たくさん考えた。
 僕らは結局、努力したことも辛かったこともそれ自体が曲やライブという形になって、みんなに届けることができる。それが当たり前になっちゃいけないな、と思う。拍手をもらえることに甘えてしまう自分も、それに対してありがとうとしか言えない自分も、なんだか情けない。

 恩返しをするなんてエゴだとはわかっているけれど、どうしたら僕らのありがとうがみんなに伝わるのか、考えて考えて、これからも曲を作ってライブをしたい。来てくれなければ、聴いてくれなければ始まらない、そんなことわかっているけれどそれ以上に、当たり前のように来てくれる人たちを絶対に大事にしたい。僕らはサービス業ではないし、どこまでもただの人間でステージから降りたらたくさんあなたに迷惑をかけるかもしれない。それでも、それでも。死に物狂いでいい曲を作って、いいライブをしたい。それは他ならぬあなたに感謝を伝えたいから。心の底からそう思います。見えない所でもたくさん泣いて、たくさんすり減らして、メンバー全員で肩を組んで、それで見てくれる皆さんにたくさん報いたい。そう思えたのは、来てくれるあなた達一人一人のおかげです。
 絶対、もっともっと頑張ります。いつもありがとう。これからもActlessを宜しくお願いします。

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