自然でいること

  書いては消して、書いては消してを気が遠くなるほど繰り返して、こんなに時間が経っていた。日記に腰を入れる必要なんて全くない。何事も発信しなきゃ始まらないよ、と誰かが言った。未熟な部分も誰かが愛してくれるよ、と誰かが言った。そもそも誰も気にしてなどいないよ、と誰かが言った。そりゃそうだ、と思うけれど、誰よりも自分を気にしているのは自分自身だ。何か書こうとすると、「おいおい、そりゃ違うんじゃないか」とつっこむ自分、「誰かを傷つけるんじゃないか」と注意する自分、「まだまだ足りんなぁ」となぜか上から言ってくる自分、全てをクリアした発言など一生かかってもできないな、と思い、少し酒を飲みながら、肩の力を抜いてこの日記を書いています。

  日記というより後記。しばらくライブが続いた。先々週の大阪、名古屋は初めての遠征、何かを掴んで来た実感ももちろんあるけれど、何より楽しかった。「楽しかった」で終わらせてはいけないことなど百も承知で、「楽しかった」以上に大事なことなんてないんじゃないかと思う。努力することも、何かを我慢することも、その先に「楽しい」が待っているからやる、というのが一番自然で、バンドは結局自然であることが一番だと思う。名古屋で食べた味噌煮込みうどんは本当に美味かった。

 

  必死で動いていないと急に不安になることがある。体が疲れていない時ほど、色んなことが怖くなって心が疲弊する。朝5時に東京を発って、ライブをして翌朝4時に東名高速を運転している時など、体とは裏腹に心はいたって健康だった。つまらないことで頭を悩ます暇もなく目の前には圧倒的な現実があって、慣れない運転で気を抜いたら死ぬ。そんな状態の方が居心地がいいのかもしれない。
  実感としてある以上に、自分は脆く弱い。そんなことを言い出すと鼻で笑われるけれど、僕はそうやって笑う人を鼻で笑っていなければならないらしい。ステージの真ん中に立つ人は断定的でなければいけないらしい。「これからも俺らについてこいよ」「俺がお前を変えてやる」がかっこいいこともよく知っているし、そうありたくてバンドを始めた節さえある。だけど絶対に僕はそれにはなれないし、今ではそんなことを断定的に言える人間が苦手だ。と、ちょっと断定的に言えたところで、今日は終わり。

一日の終わり

 今日は久しぶりに体調を崩してしまって、朝から晩まで家にいた。外はずっと暗かった。台風が来るらしい。ただ寝ているだけだと悲観に向かいそうな体を必死で起こして、本と服で散らかった部屋の片付けをした。時間が経つのはすごく早かった。
 「長い目で見る」ということを、いつからか忘れていた気がする。いつの間にか、何かしなきゃ、何かしなきゃと生き急いでいる。そう気付くのはいつも休日だ。急に立ち止まると、夢中で走っていた時には気付かなかった疲れが溢れ出すみたいに、何かを実感するのはいつだって立ち止まった時だと思った。
 「やりたいことが沢山ある内は幸せだ」と人は言うけれど、やりたいことに追われて生きることが必ずしも幸せとは思えない。やりたかったことがタスクになってしまう時は空恐ろしい。何も予定帳に書かなくてもこれぐらいはやるよ、と考えていたことで予定帳が埋まっていく、そんなイメージが絶えずあって怖い。あくまでも追いかけていたい。何もしたくない、そんな一日もあっていいし、何かに巻かれるように生きてもいいけれど、「何かをしたい」というただそれだけに突き動かされて生きていたい。そんな一日の終わりを、書きたいと思って書いた。夜は曲を書こう。

六畳の夜

 昔から寝つきが悪い。それゆえに、夜が苦手だ。夜が更けるにつれて、感情のわだかまりが姿を見せ始め、そのわだかまりの正体が一体何なのかもわからずに、ひたすら不安が押し寄せてくることがある。不安はそれが不安だと意識すればするほど大きくなって、頭の中がその不安でいっぱいになり寝付けなくなる。体がどれだけ疲れていても、意識のどこか尖った部分が自分を叩き起こしている。だけど一体何が不安なのか、自分でも見当がつかない。

 そんな夜は、自分でもびっくりするほど神経が鋭敏になっている。時計の針は舌打ちをしているようで、眠れない僕を焦らせる。一秒とはこんなに早いものだったのか、明日は一秒一秒大事に生きようと、大事なことに気付いたつもりになってみても、肝心の明日が来ない。堂々巡りとはまさにこのこと、こんな状態で朝日を待つ僕は世界で一番無能な存在だ。

 それだけ自分にとって、寝付けないことは悲観の種になっている。だからこそ、こういう時のために作品がある、と僕は勝手に思ってしまう。もちろんこんな身も蓋もない悩みに高尚な作品をあてがうつもりはないけれど、自分はこういう寝付けない深夜に多くの作品に胸を突き動かされ、救われてきた気がする。

 僕がバンド音楽を聴き始めたのは、ELLEGARDENが始めだった。高校の先輩に聴いてみろと言われて初めて聴いたのはベスト盤の「Middle of Nowhere」、畳み掛けるような英詞の中で、「君は狂ってなんかいない ただちょっと複雑なだけだよ」という一節がある。僕はそのフレーズを聞いた瞬間にロックの虜となった。正体もわからない不安、行き場のない感情を、肥大した自意識の中に溜め込んでしまっていた僕は、この「ただちょっと複雑なだけだよ」という言葉に泣けてくるほど安心した記憶がある。君はここがおかしいよ、変だよ、というのではなく、「ただちょっと複雑なだけだよ」と捉えてくれる音楽の優しさと懐の広さ。それは自分が今まで出会ったどんな言葉よりも、自分の不貞腐れた自意識を抱きしめてくれた。それ以来、僕は音楽や本にこういう「言葉の救い」みたいなものを求め始めて、しまいには自分が救われたように誰かを救う作品を作りたいと強く願うようになった。少ないけれど自分の曲を聴いてくれている人がいる時点で、僕はちょっとでも誰かの救いになれているのかな、なれていればいいなと願いながら曲を作る。けれど結局、一番その事実に救われるのは自分だ。

 深夜の帰り道、iPhoneで音楽をシャッフル再生していると流れ出したのは聴き飽きるほど聴いたアジカンのリライト。「軋んだ想いを吐き出したいのは、存在の証明が他にないから」?悩みを書き連ねるのは結局は自己主張かな。大好きな音楽にもバカみたいと笑われる夜がある。そんな夜は、自分でも驚くほどスッと眠れたりする。

最高の今を打ち鳴らせ


  ワンマンが終わって一週間が経って、ようやく自分の中で気持ちが落ち着いてきた。ステージに立った時の感動があまりにも大きすぎて、その余韻をずるずると引きずってここまで時間が経ってしまった。来てくださった皆さん、いつも支えてくれる皆さん、何はともあれ本当にありがとうございました。

 ワンマンをやると決めた時、僕は恐ろしく不安だった。集客の不安ももちろんあったけれど、それ以上に、楽しんでくれる人、楽しめなかった人、それらすべてが僕らの一挙手一投足にかかっていることが、怖くて仕方なかった。正直に言ってしまえば、そんな重役を務める器量に自信がなかった。
 「やってみなきゃわからない」ことがあるにしろ、それで誰かの好意を踏みにじるリスクがあるのならきっと挑んではいけない。わかってはいながらも、ワンマンの開催を決めてしまったのはきっとどこまでも僕らのエゴだった。

 それでも蓋を開けたら、演奏が終わるたびに本当に大きな拍手が僕らを待ってくれていた。たくさんの笑顔が僕らの演奏を見守ってくれていた。それが何よりの救いでした。僕らが笑った時に一緒になって笑ってくれる、僕らが泣きそうな時は一緒になって涙を流してくれる、そんな存在がいることは、僕らにとって幸せでしかない。

 だけど、ワンマンが終わってみて、なんだか急に落ち込んでしまった。当たり前のことを僕は忘れていた気がする。きっと来てくれるあなた達一人一人がとてつもない努力を注いでいる場所は、誰からも拍手をもらえない場所だったりする。誰からも見えない所で泣いている人だってたくさんいる。そんな中で僕らだけが拍手をもらえることに、なんだか抵抗を感じた。というか、これに対して罪悪感を感じていなければ自分は駄目になると思って、たくさん考えた。
 僕らは結局、努力したことも辛かったこともそれ自体が曲やライブという形になって、みんなに届けることができる。それが当たり前になっちゃいけないな、と思う。拍手をもらえることに甘えてしまう自分も、それに対してありがとうとしか言えない自分も、なんだか情けない。

 恩返しをするなんてエゴだとはわかっているけれど、どうしたら僕らのありがとうがみんなに伝わるのか、考えて考えて、これからも曲を作ってライブをしたい。来てくれなければ、聴いてくれなければ始まらない、そんなことわかっているけれどそれ以上に、当たり前のように来てくれる人たちを絶対に大事にしたい。僕らはサービス業ではないし、どこまでもただの人間でステージから降りたらたくさんあなたに迷惑をかけるかもしれない。それでも、それでも。死に物狂いでいい曲を作って、いいライブをしたい。それは他ならぬあなたに感謝を伝えたいから。心の底からそう思います。見えない所でもたくさん泣いて、たくさんすり減らして、メンバー全員で肩を組んで、それで見てくれる皆さんにたくさん報いたい。そう思えたのは、来てくれるあなた達一人一人のおかげです。
 絶対、もっともっと頑張ります。いつもありがとう。これからもActlessを宜しくお願いします。

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夏蝉

時間を咀嚼するように窓の外を眺めていた。取り残されるのはいつだって自分のせいだ。蝉は数日で死んでしまうのに、ほとんど鳴いている姿しか見ない。精一杯鳴いているのを見て僕らは何を思えばいいんだろうと考えてみたけれど答えは出ない。数日間の儚さを訴えかけてるんだ、みたいな戯言が浮かんだものの煩わしくて耳を塞いだ。無理して何かを感受するのは心にも体にも良くない。うるさい黙れと言いながら窓を閉じた。外に向かって呟いたのに、自分が言われているような気がした。どんどん自信がなくなっていくのに、どんどん発信したいことが増える。排泄するみたいに感情が出てくる。ただ鳴いている蝉よりも、僕の中の僕がうるさい。そろそろ黙れ。いつの間にか7月が終わる。

若者

暇になるとあれこれと意味もなく悩んでしまうので、ああ自分はまだまだ若いなと思う。電車に長く揺られる時は暇潰しに読書をするのがいいし、額が汗ばむ夕方は風呂に入るのがいい。堂々巡りの夜は腹を決めて泣き寝入るのがいい。悲観はそれだけで簡単に楽観に変わる。考えても仕方がないこと、というのがきっとある。考えろ考えろ、と思ってしまう時は、大抵考えても解決しない。徒然に身を任せて、好きなことをしたり会いたい人に会っている方が、気付いたら悩みは解決しているみたいだ。そう考えると自分が抱く悲観なんて一握も価値がないじゃないかと、阿呆らしく思って、また寝る。

悩むよりまず行動しろ、そんなことわかっているのだけど、どうにも足が前に進まない。何をしようにも、その人なりの理想というものがあって、その理想を担保に努力をするのだけれど、これが果たして難しい。理想なんて人それぞれなのだから、自分がそうなれるまで努力したところで、他人にとっては他人の理想だ。他人の理想に対する拍手を受けてもきっと何の意味もない。かといって、自分の理想を見つけることもひどく難しい。誰かの理想を知ることでしか、自分の理想を見つけられなかったりする。と考えている時点で自分は遠くに行けないな、と思う。

自嘲気味に自分を見れるようになったのか、それとも単に自分がその程度の人間なのか、圧倒的多数派で後者だと思える限りはきっと自嘲的だ。自己愛たっぷりな人のツイートに敏感なのは、自分がそれを必死で隠しながら生きているからかな。日曜の夜はいつも色んなことが不安になるけれど、今日も泣き寝入れば明日は笑えるのだろうか?

表現

ずっと表現者に憧れていた。それ以外の何にも憧れなかった。

「音楽を作りたい」「文章を書きたい」とか、そんな単純なことではなくて、「表現者になりたい」というのが自分の願望の根底にある気がする。それは何というか、自意識が膨らみまくってるわけでもなく、表現することに極端に飢えているわけでもなく、ただ憧れていたからだった。それに応えてくれるのが音楽だったり文学だったり映画だったりした。

作品に救われることが昔からたくさんあった。自我が強いのに人の価値観に左右されやすい自分は、結構簡単に、色んな作品に心を動かされた。

自分が自分を強く持てるほどタフではないことや、全てが不安で仕方ないところが弱さであり、恥ずべきことだと自覚した瞬間に、なぜかそれは隠すべきことではない気がした。と思えたのも、僕が色んな作品を好きになったからだ。隠すのではなくて表現すること。そうして素敵な作品を世に送り出している表現者にこの21年間でたくさん出会った。弱さを強さに変えている表現者たちをたくさん咀嚼して生きてきた。自分も弱くていいんだ、と思っただけではなく同時に、ひどく憧れた。人から見たら、そんなものは怠惰以外の何物でもないんだろうけど、僕は憧れた、本当にそれだけでいいんだと思う。憧れたから、好きだから、したい。それだけが僕を創作に駆り立てる。と言いたい。

レコーディングがあった。本当に自信のある音源ができた。どんなにいい作品ができたと思っても、それを一番いいと思うのが自分だ、という事実は少し悲しい。だけど、僕らはバンドだからその気持ちも共有できる、それがたまらなく嬉しい。明日も元気に生きよう。