無駄な疲れ

   この世に無駄な疲れは存在するのだろうか、などと考えていたら、無駄に疲れた。

   ベッドと壁の細い隙間に鍵を落としたことがある。試行錯誤を繰り返して、やっとのことで「うちわの先にガムテープを貼り付けて鍵を釣り上げる」という技を編み出し鍵を救出したはいいものの、約束の時間に遅れて駅まで走ってひどく疲れた。
   この時僕は「無駄に疲れたなあ」と思ったのだけど、もしかするとこの荒技の発見は今後人生の岐路において何か重大な役割を果たすかもしれないし、もしくはガムテープをベッド横の隙間に這わせて散在していたホコリを除去したおかげで、ハウスダストに起因する呼吸器疾患を防げたかもしれないなどと考え出したら、人生的なスケールで意味のある疲れなのかもしれないと合点してほっとした。
   いや、こういう所も含めて僕の生き方には全体的に無駄が多いのかもしれない。

   「1日の終わりにジムへ行きます」という人たちをなぜか信用できない。というか、信用したくない。疲れ果てた1日の帰りに、その疲れをさらに極限まで追い詰めるようにランニングマシンで体を痛めつけ、ベッドに倒れこむようにしないと寝付けないその姿に何らかの狂気を感じる。その人たちに言わせれば、「疲れとは通り越し、新たな境が見えてくるもの」らしい。難しすぎて全然わからん。

   「無駄な疲れ」と「無為」は意味が違うけれど、もしかしたら近いものかもしれないと思うことがある。「努力とは、その先に成果があると思ってやっている時点でもう苦痛ではないからそれは努力ではなく、本当は何もしないのが一番苦痛だから努力なのではないか」と誰かが言っていた。なんだか胡散臭いようで妙に納得のいく話だと思ったけれど、この説で行くと「無駄な疲れ」とは無為に近い努力の結晶なのではないか…という真理めいた何かが仄明るく見えて来たが、疲れたので寝る。