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最近ブログを書くペースがまた落ちてしまっているのは、日々忙しく生きているからだと言いたいところではあるが、大して忙しく生きているわけでもないし逆に忙しくしていればしているほど書き記したい感慨は増えていくもので、つまり、何も言えないのである。読んでくれている人がいる限り、何かにつけて思ったことを書き続けたい。

 

ライブが近いので、テンションが高い。

 

今日も早稲田の古本市で世界文学全集などの大型本含む三冊を購入し、また友人から荒木飛呂彦の漫画をもらって図書館で二冊の本を借りるなどしたうえで、ぜえぜえと息を切らしながら大荷物を持って家に帰ったのだが、これはもう病気ではないかと思う。読みきれるはずがないのだ。わかっている。読みたい本を見ると反射的に買ってしまって、それがどんどん積み上がっていくのをただ崖下から眺めている。なんと言えばいいだろう、絶対に勝てない敵を前にした時に感じる無力感が何とも言えない心地良さにつながっていると言えば良いか…圧倒的に打ちのめされた時に人はある種心地良さを感じるものだと思う。その壁を、自分でせっせと働いた金をはたいて築き上げている自分は阿呆としか言いようがないのだが。

 

現代は、合理性が何よりも大事とされている社会だ。どこに行くにも最速最短が求められ、不必要な荷物はスッキリと処分させ、徐々に小さくなっていくスマホに全てを収斂させることだけに皆が尽力している。その時代に対して、古本屋で阿呆のように大量の本を買って部屋の範囲を狭めたり、ストリーミングでいくらでも聴けるのにCDを現物購入してジャケットを惚れ惚れと眺めていたり、YouTubeで観れるのにわざわざライブに出かけたりするのは、圧倒的に合理的ではない。そんなこと、わかっているのだ。わかっているけれど、決して合理的ではないことやものが大好きな僕らが、大好きなものを斥けてしまったらそれはもう駄目だと思うのだ。これは、ある種の使命感であり、社会にとって必要な考え方だと言いたい。

好きなものは、好きと言い続けなければきっとなくなってしまう。それが嫌だから、僕はこうして毎日リュックをパンパンに膨れ上がらせながら大量の書物を持ち歩いているのである。

うーん。わかっている。これは、阿呆の言い訳だ。