わかっているような顔

   何か途轍もなく悲しいことがあった、嬉しいことがあった。もしくは朝の光が水溜りに反射して輝いている風景や、夕焼けがビル群を優しく茜色に染めている遠景を眺めて日々の疲れが癒された。そんな感慨を覚えた時よりも、何もない帰り道、疲れ果てた足で詰め込まれた満員電車の中、何も考える気が起きない夜にこうして文章を書くと、自分は自由になれる気がする。自由は結局、拘束の中にある、と言っていた作家の名前は忘れたけれど、こうした文言を頭に浮かべているとなんとなく救いがあるので文学も捨てたもんじゃないと思う。

 


   僕は今足が疲れている。だけど、バンドTシャツに短パンという軽装、無造作な髪で薄いリュックを背負って車中にいる僕は、スーツにズッシリと汗をかいた勤め人、めんどくさそうに両手親指でスマホを弄る白髪の老人、大きすぎるデパートの買い物袋を抱えた女性と比較して、座席に座る権利はない。だけどそれは見た目の話で、僕だって足が疲れている。権利って言葉は優しさのようでいて、いつも誰かに対して残酷なのだ。ふくらはぎに蓄積された疲労を数値で表せるとして、僕はそこらにいる壮年老年の数値を遥かに上回り一等賞をとる自信がある。これは想像力の問題だ。傾向として「若者は元気だ」とか、そういう話じゃないのだ。傾向は常に人の想像力を鈍らせる。大事なのは、他人に伝わらない個の感覚、内に秘めた苦痛に思いを馳せ続けることじゃないのか…などと難しい顔で考えていると、前に座っていた老人がおもむろに立ち上がりホームへと消えていった。若い僕があれこれと考えるよりも、歳を重ねた老人にはもっと多くのことが「わかって」いるのかもしれない。そんなことまでわかった気になるなよ、自分。結局、わかったようなわからないような顔で、僕は踵を返し、他の乗客に席を譲ってみた。