鉛筆

「心をまとめる鉛筆とがらす」尾崎放哉

 

 鉛筆を尖らすことは、それ自体すり減らすことでもある。この尾崎放哉の句を読むと、削れば削るほど尖っていき、尖らせすぎるとポキっと折れてしまう鉛筆の有様が、そのまま人間の姿として伝わってくる。
 心をまとめて相手に伝えることは難しい。それは、事に及んで抱いた感情は白か黒では表せないからだ。
 「言葉にする」ことは、日常会話の場面で言えば「選び取る」ことだと思うことが度々ある。どことなく憂鬱で誰かに会いたい、そんな時、誰かに「悲しい」という言葉だけを伝えたって、きっと自分の感情は伝わらない。どれかと言えばこれかな、という風に漠然と言葉を選んで、その言葉をポンっと相手に放る、と、その言葉は放られた瞬間から形を変え始め、色を変え、大きさを変え、あらゆる文脈に変換されて、長い距離を飛び越えて相手に着地する。わかり合うことが難しいように思えるのは、自分の感情に適した言葉を選ぶのが難しいからだと思う。それと同じ理由で、SNSは「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」が可視化されてしまうから難しいのだ、と僕は思う。

 

 そんなことを考えていたって、誰にも伝えることができないのなら考えること自体にも存在意義はない。発信できないような浅い考えは、考えていることにもならない。誰かに実際に会って話さなくても、言葉がネット上に多く流れていればたくさんその人に会っているように思える社会だ。それはそれでいいことはたくさんあるけれど、当たり前のようにそれが嫌になり、考えることも伝えることも面倒になって終日家で寝転んで過ごしていると、自分の先っぽがどんどん丸くなってきているのを感じ始め居ても立っても居られなくなる。そして今ここで、パソコンに向かって、こんな文章を書いている。自分はまだ若い。伝えることを諦めることなんてきっとできない。折れてしまってもいいから、削って削って尖らせたい。その繰り返しだけが生きている証拠なのだ、と、もうとっくの昔に成仏した尾崎放哉の声が聞こえた気がした。