雑感日記

Actlessというバンドで歌ってます。

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マンチェスター・バイ・ザ・シーの中で、父親を亡くした息子が冷凍庫の中の肉を見ただけでパニック障害を起こし、それを主人公がなだめる場面があるのだけど、僕はそのシーンがすごく好きだ。こういうことを言うと、「人の不幸が面白いなんて変だ」とか「そんなシーンの何がいいのか」と言う人が少なからずいるけれど、逆に僕は、そういう場面を見て何かを感じること、考えることが、生きる上ですごく大切なことのような気がしているだけだ。むしろそういう映画を見た時に目を背けてしまうこと、再生を止めてしまうことこそ、映画にとって不幸だし悲しいことな気がする。そしてそういう見方を変えれば、もっと人生は豊かになると勝手に思ってる。まあ、人それぞれ好きに生きればいい。

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ムンク展に朝からいった。とんでもなく良かった。個人的には「病める子」が一番好きで、これは病床にあった彼の姉をモデルとして描かれた作品なのだが、こういう作品を、誰かに「好き」と言うのは難しい。というか、なんだか少し不謹慎な気がして後ろめたい気持ちになる。しかしどう考えても僕はその作品が「好き」だった。それを見て暗い気持ちになることも、自分の中にあった脆い部分が抉られていくような感覚も、その気持ちになれて本当に良かったと思えるものでしかない。

ムンクは、自然に対して自分の感情を通して見える景色は、気分の高低によって全く異なるものになるという旨を、書き溜めた文章の中で語っている。そんなことを、僕は頭のどこかで考えていたようで全く考えていなかった、ようでそれは妙に納得のいく言葉だった。いい芸術体験とは、こんな感じかな、と思えたのでよかった。

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昨日はレディ・バード早稲田松竹に観に行き、その後図書館にこもって町屋良平「しき」を読了した。今朝は早い時間からバイトに行き、昼を食べてから少し午睡をして今はミシェル・リオの「踏みはずし」を読んでいた。主人公が自分に宛てられた手紙を読んでいる場面でふっと日記のことを思い出して、五日ぶりになんとなくこの文を書いている。

 

音楽が好きだから音楽をやっているのだが、正直僕は「音楽がなければ生きていけない」タイプのバンドマンではない。音楽以外にも楽しみはたくさんあるし、電車内でも音楽を聴いていることより映画を見たり本を読んだりYouTubeでお笑いを見ていることの方が多い。

昔は、高校生の時などは、音楽を聴いていると他の何をしている時よりも高揚した。一人部屋でヘドバンしたり、道端で拳を突き上げそうになるのを必死でこらえて心拍数が上がっていったりするのがとにかく楽しかった。だけど、今ではどうだろうか。

今の僕は、音楽を聴くと「楽しい」とか「気持ちいい」とか、簡単な言葉では言い表せない複雑な気持ちになってしまう。もちろん楽しいし、気持ちいいのだけれど、どこかで胸が痛くなってしまっている自分を感じる。どんなに明るい音楽を聴いても、なぜか泣きたくなるような気がする。

それは、音楽には自分の希望も、挫折も、夢も、悔しさも、憧れも、たくさん詰まっているからだと思う。そんなことを言うと気取っているように思うけれど、僕は随分長くバンドをやってきた。もう、若いとは言われない年齢になってきた。まだまだ甘いと言われようと僕なりに感じた苦悩もたくさんあったし、失ったこともあるような、ないような、いずれにせよ悲観的に考えれば明らかに苦い経験もたくさんあった。それが、音楽を聴いていると沸々とよみがえってくる気がしてしまうし、そういった経験を繰り返し耐えてきたアーティストのことが頭にちらついて音楽にスッと没頭できない。

忙しくてさわがしい社会で、平穏に生きていくことは誰にとってもきっと難しい。何かを頑張ろうとすればするほど、自分を押しつぶすほどの情報やタスクの重圧に耐えきれなくなって、何かを辞めてしまう人がきっとたくさんいる。だから僕は、自分なりに力みのない努力を向けられる場として映画を見たり本を読むことが救いになっている。これは人によると思うけれど、僕にとっては「役に立っているのか立っていないのかよくわからない、けどやってよかったと思う」ことをしている時が、一番楽しい。そういうことをしていると、自分を少し俯瞰的に見ることができる気がする。自分を外から見てみると、なんだ、意外とマシじゃん、悪くないじゃんと思えるのだ。どれだけ逃げと言われようが、僕にとってはそれが、一番心地いい。

そう、本を読んでいたはずなのに、気付いたらこんなに長い文章を書いていて、すっかり日が暮れている。これぐらいの緩さで、絶え間無く持続できるような努力(と言えるかはわからない業)をこれからも続けていくことが、僕の生活には絶対必要だと思っている。

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帰りの電車はバカみたいに混んでいて、本を読む気にも映画を観る気にもならずひたすら息苦しい車内に耐えながらエレカシを聴いた。20数年間東京に生き続けてきたが、こんな地獄みたいな電車にはもう乗りたくない。慣れなんてものはない。死んだ目になるだけだ。何も見ないようになるだけだ。見ないようにしていたものをハッと自覚してしまったとき、叫びだしたくなるのを堪えられる気がしない。ついカッとして、人を殴った、果てには殺した。都会人にとって、それは決して遠い話ではないと、明日は我が身と、肝に命じておけ。

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昨日は少し飲み過ぎて遅めの起床。ゴーストワールドを今日ツタヤに返却しなければならなかったので観た。これは単なる青春映画に終わらないことはなんとなくわかったけれど、何がどう深いのか上手く説明できない。最後に主人公はバスに乗り、どこへ向かったのか。それが明るい未来か、果たして絶望的な場所だったのか、解釈は分かれるような気がしたが、僕としては正直どっちでもよかった。どっちでもいいか、ぐらいの感覚で映画を見ている時が一番楽しいし、下手に誰かと論争して傷つけあっても仕方ない。楽しいのが一番だ。

 

悲観的で有名なカフカアフォリズムを読んでいたら、こんな言葉を見つけた。「もしお前が平地を歩いていて、歩こうという十分な意欲をもちながらそれでも引き返すとしたら、それは絶望的な事態だろう。しかしお前は険しい急斜面を、いわば下からでもそれとわかるほど険しいところをよじ登っているのだから、引き返すといってもそれは岩質のせいだけかもしれなくて、お前は絶望するには及ばない。」これは、むちゃくちゃ前向きな言葉だと思う。悲観的な人は、生きるために悲観的なのだ、と思う。決して、死に向かおうとしているわけではない。みんなきっとそうだ。楽観的な人は、前向きであることで自分を勇気付けているし、悲観的な人は、挫折のことを大げさなぐらい意識して実際のダメージを減らす努力をしている。みんな自然と生きるためにそうしている。きっと無意識的に。そしてそんなことを考えさせてくれるカフカのような作家がいるから、どんなに悲観的でも、僕らは前を向ける。

1115

昨日はライブ、今日はバイト。明日もバイトで、夜練習。よしよし、お前は頑張ってるなと自分に言い聞かせている。最近思うのだけれど、毎日つらい、どうしようもない、泣きたい、どうしてこんな毎日を送らなきゃいけないんだろうと考えて苦しくなってしまう人は、自分を褒めることが苦手な人なんだと思う。自分自身の努力を、仮想のもう一人の自分を設定して「よくやってるな」と褒めながら生きれば、多分結構毎日楽しい。辛い毎日を過ごしている人は、誰かに褒めてもらうよりまず先に、自分を自分で褒めてみると気持ちは随分楽になると思う。そんなことを考えてる自分は、順調に甘ったれた人生をつきすすんでいる。

 

ライブは正直、うーん。悔しかった。終盤声が出なくなったことは、もちろん悔しいけれど、ライブが上手い人ならきっとどうにかなる。しかし昨日はその時点からどうにも気持ちが悲観的になってしまって、最後は「ごめんなさい」という気持ちで長く頭を下げた。いつもは「聴いてくれてありがとう」のお辞儀だが、今回はどちらかというと懺悔の念が強くて、最後の音を全員で鳴らして頭を下げた瞬間が一番悔しかった。ひしひしと色々なことを感じた。僕はまだまだ、まだまだだ。悔しいけれど、それは事実だし、その事実を真っ向から受け止めるのは荷が重すぎて打ち上げで酒を飲んでしまった自分がまた恥ずかしくなって帰り道は少し涙目になった。

 

本当は、自分の心のど真ん中と少し距離を置いた日記を書きたいと思っている。そうやって書くことが一番、自分の気持ちに近付く気がするから。今日は反省してばっかりだ。