雑感日記

Actlessというバンドで歌ってます。

夏蝉

時間を咀嚼するように窓の外を眺めていた。取り残されるのはいつだって自分のせいだ。蝉は数日で死んでしまうのに、ほとんど鳴いている姿しか見ない。精一杯鳴いているのを見て僕らは何を思えばいいんだろうと考えてみたけれど答えは出ない。数日間の儚さを訴えかけてるんだ、みたいな戯言が浮かんだものの煩わしくて耳を塞いだ。無理して何かを感受するのは心にも体にも良くない。うるさい黙れと言いながら窓を閉じた。外に向かって呟いたのに、自分が言われているような気がした。どんどん自信がなくなっていくのに、どんどん発信したいことが増える。排泄するみたいに感情が出てくる。ただ鳴いている蝉よりも、僕の中の僕がうるさい。そろそろ黙れ。いつの間にか7月が終わる。

若者

暇になるとあれこれと意味もなく悩んでしまうので、ああ自分はまだまだ若いなと思う。電車に長く揺られる時は暇潰しに読書をするのがいいし、額が汗ばむ夕方は風呂に入るのがいい。堂々巡りの夜は腹を決めて泣き寝入るのがいい。悲観はそれだけで簡単に楽観に変わる。考えても仕方がないこと、というのがきっとある。考えろ考えろ、と思ってしまう時は、大抵考えても解決しない。徒然に身を任せて、好きなことをしたり会いたい人に会っている方が、気付いたら悩みは解決しているみたいだ。そう考えると自分が抱く悲観なんて一握も価値がないじゃないかと、阿呆らしく思って、また寝る。

悩むよりまず行動しろ、そんなことわかっているのだけど、どうにも足が前に進まない。何をしようにも、その人なりの理想というものがあって、その理想を担保に努力をするのだけれど、これが果たして難しい。理想なんて人それぞれなのだから、自分がそうなれるまで努力したところで、他人にとっては他人の理想だ。他人の理想に対する拍手を受けてもきっと何の意味もない。かといって、自分の理想を見つけることもひどく難しい。誰かの理想を知ることでしか、自分の理想を見つけられなかったりする。と考えている時点で自分は遠くに行けないな、と思う。

自嘲気味に自分を見れるようになったのか、それとも単に自分がその程度の人間なのか、圧倒的多数派で後者だと思える限りはきっと自嘲的だ。自己愛たっぷりな人のツイートに敏感なのは、自分がそれを必死で隠しながら生きているからかな。日曜の夜はいつも色んなことが不安になるけれど、今日も泣き寝入れば明日は笑えるのだろうか?

表現

ずっと表現者に憧れていた。それ以外の何にも憧れなかった。

「音楽を作りたい」「文章を書きたい」とか、そんな単純なことではなくて、「表現者になりたい」というのが自分の願望の根底にある気がする。それは何というか、自意識が膨らみまくってるわけでもなく、表現することに極端に飢えているわけでもなく、ただ憧れていたからだった。それに応えてくれるのが音楽だったり文学だったり映画だったりした。

作品に救われることが昔からたくさんあった。自我が強いのに人の価値観に左右されやすい自分は、結構簡単に、色んな作品に心を動かされた。

自分が自分を強く持てるほどタフではないことや、全てが不安で仕方ないところが弱さであり、恥ずべきことだと自覚した瞬間に、なぜかそれは隠すべきことではない気がした。と思えたのも、僕が色んな作品を好きになったからだ。隠すのではなくて表現すること。そうして素敵な作品を世に送り出している表現者にこの21年間でたくさん出会った。弱さを強さに変えている表現者たちをたくさん咀嚼して生きてきた。自分も弱くていいんだ、と思っただけではなく同時に、ひどく憧れた。人から見たら、そんなものは怠惰以外の何物でもないんだろうけど、僕は憧れた、本当にそれだけでいいんだと思う。憧れたから、好きだから、したい。それだけが僕を創作に駆り立てる。と言いたい。

レコーディングがあった。本当に自信のある音源ができた。どんなにいい作品ができたと思っても、それを一番いいと思うのが自分だ、という事実は少し悲しい。だけど、僕らはバンドだからその気持ちも共有できる、それがたまらなく嬉しい。明日も元気に生きよう。

敗退

三度寝から目覚めても特にすることがなくて、買っただけで読めていない本に手を伸ばしたけれど数ページで敗退。忙しい時にできないことは時間があってもできない。曲だけはいつでも作れるということにしておきたい。仕方なく着替えて外に出たけれど祝日の街に敗退。みんな幸せそうなことは別にいいんだけれど自分も十分幸せなことになぜか苛立つ若者は吉祥寺で下車、いつ来ても客がいないモスバーガーは相変わらず客がいないけれどいつ客が来ても準備万端です という雰囲気、敢え無く敗退。何を創作したいのかわからないのに何かを創作したい。空腹こそが芸術だ。腹が満たされたら何も書けない。燻りも拘りも満腹に負ける。自我を磨くよりも人と出会うことだ。ロマンなんて所詮自己愛だ。幸福は馬鹿だ、と言っていた僕はきっと手にした瞬間に価値観を変えてしまう程の凡才だ。凡才が非凡であるために歌を歌うのに非凡であると言いたがるほど凡才で終わることに気付いたのはここまでペンを走らせた後だった。チェックメイト。敗退。

春の話

背負ったギターケースの匂いも、新宿の人混みも、無理して頼んだコーヒーも、全部春の匂いな気がしてなんでだろう?と思っていたけれど、ただ単に冬の間し続けていたマスクを外したからだった。気付いたらもう既に、冬の寒さを忘れている。暑さにも寒さにも慣れてしまうんだったら、寒さに慣れて暑さに敏感でいたいと思うのだけれど。それでも悔しいけど春はいいなあ。朝が来る感じで春が来た。

自分がいる場所もやっていることも全く変わっていないけれど、4月は季節のせいかなんだか人との出会いを色濃く感じる。ここ何年か学生というよりはバンドマン、みたいな生活の中で、厳しさも、優しさも、愛しさも全て、音楽を通して出会ったことばかりな気がする。大好きなバンドがMCで、「音楽にジャンルはあるけれど人間にジャンルはない!」と言っていたけれど本当にその通りで、結局分かり合うのは想像力、どうして泣いてるんだろう?どうして笑ってるんだろう?を分かり合おうとすれば、絶対に差別なんて生まれないと思う。音楽だってきっとそうだ、って思える人の作った音楽が好きだな。全ての人と分かり合うことはできないし、自分にきっとそこまでの想像力はないけれど。それでも出会った人がたくさん愛しい。

9月のワンマンをこの前発表してからしばらくバンドのライブは無くて、スタジオ練習以外の時間は一人アコギを触ってのんびりと曲を作っているのだけれど、お!いいフレーズだ!と思ったら数分前に同じフレーズがボイスメモに残っていたりしてあれ?みたいなことがよくある。なんだかずっと虚無だ。やっていることに対する反応が欲しくて仕方ない。本当にライブが好きだなあと思う。ライブは「今」だからいいんだよなあ。音源にもSNSにもない今の息遣いみたいなものはライブに全て詰まってる。その場限りなものはその場限りだからいい。たとえ礼儀でも演奏が終わった時にもらえる拍手が大好きで、思うに自分の今を投射する場所があるかないかで、人の生き方は変わるのではないかと。

とてもいい曲ができてる。はず。立ち止まっているように見えて進んでいるんだと主張したい時は、発信しなきゃ伝わらないのだけれど、発信がどうにも苦手というか、発信することの比重が自分の中で小さい。言葉だけがスーッと飛んで行くよりは、言葉にしていないけれど伝わっている瞬間の方が愛おしくないですか?そんな綺麗事は言ってられないのでこれからは極力たくさんブログを書きたい。読んでくれる心優しい人はその心の優しさに自信を持って生きてください。終わりです。

上京

新宿に向かう電車の中で、東京のことを考えた。

タイトルに上京という名前をつけたけれど、僕は上京を経験したことがない。生まれてこの方、ずっと東京で暮らしてきた。それがいいか悪いかは別にして、そのせいで経験しなかった感情が沢山あると思えて仕方ない。
バンドをやっていると、上京してきた人達に沢山出会う。東京で一発花を咲かせてやろうという情熱を胸に東京に出てきた人も、東京という場所に出てきたことで音楽を始めるきっかけに出会った人もいる。僕はそういう人達に対してある種の劣等感を常に感じてきた。

かつて東京を夢見て上京してきた人達の作る音楽は、なんだか独特な空気感を持っていて、それが間違いなく強みになっている気がする。きっと「上京」という行為が夢を追いかける人の気持ちとリンクして、聴く人に強く迫ってくるからだろうなあと思う。YUIのTOKYOという曲に、こんな歌詞がある。

「何かを手放して そして手に入れる そんな繰り返しかな」

東京は乾いている。悲しさも愛しさも淘汰されていく。沢山の人に溢れた街で、沢山の思い出に出会う。と、気付く間も無く思い出を手放して歩き出す。思い出を超える思い出に出会って、思い出ひとつひとつの濃度が薄れていく。忘れられない人を忘れさせてくれる誰かに出会う。止まることなく変わっていく街で、止まることなく人は変わっていく。

それでもきっと、東京に出てきた人々にはそれぞれ帰るべき故郷がある。故郷に帰れば、自分が変わった所、変わらない所を、変わらずわかってくれる人が待っている。それはすごく素敵なことだと思う。そんな街がない自分が時々すごく可哀想に思えてしまう。

 

そんなことを考えながら家路に着く。スーパーで買い物をしていた母親に会った。いつもと変わらぬコートを着て、いつもと変わらず2Lの緑茶を自転車のかごいっぱいに詰め込んで笑っている。いつか僕も実家を出ていく。何かを手放して、そして手に入れる、そんな繰り返しだとしても、何も手放したくないな、と思ったりした。

冬が好きだ。

真冬の、しかも最も寒い時期に生まれたからかもしれないけれど、冬になると毎年心が躍る。冬という季節は、受験や冬眠のイメージからか一般的にかなり悲観的に見られているけれど、僕は全然そうは思わない。たしかに、夏のはじけるようなイメージや身を焦がす暑さと比べたら、暗く無機質な冬は悲観的に見られてもおかしくはないけれど、僕は冬にこそあたたかさがあると思う。

冬にあたたかさを感じる瞬間はたくさんある。人間は慣れる生き物だから、「寒い」ことが普通になるとそれだけ暖かい場所に行った時の有り難みを強く実感する。それはきっと気温だけではなくて、その他の色んなあたたかさもあると思う。自分が幸せじゃないと思えば思うほど些細なことでも幸せな気持ちになれるのと同じで、冬は無情なようでその中にある小さなあたたかさに気付かせてくれる。気がする。

冬にこそあるあたたかさを曲にしよう、とギターを手に取ってみたけれど、思うように進まない。優しい気持ちは曲になりづらい。何か共感したり、胸に響くような曲はいつもどこかにトゲがある。誰かから突き刺すように言われた言葉がいつまでも忘れられないように、人の心に残る曲というのはどこか痛みを与える強さを持っているのかもしれない。もしくは自分の中に、辛いことや悲しいことを消化するために曲を作っているという潜在意識があるのかもしれない。弱いなぁと思う。Actlessというバンド名をつけてしまったけれど、いつかは自分の感情や苦しみと折り合いをつけて、それを上から見下ろすように曲を書けるようになりたい。どれくらい大人になったらそれができるようになるだろう。そこまで大人になったら曲なんて書いてないのかな。